皆さんは『皇室典範』という法律をご存知でしょうか?
この度の特別国会で皇室典範改正案が提出され、可決・成立しました。
皇室典範の本文が改正されるのは歴史的瞬間といっても過言ではありません。
この歴史的瞬間を記念して、皇室典範と日本史史上唯一の母から娘への皇位継承をご紹介していきたいと思います。
では、一緒に素敵なタイムトラベルの旅へ
皇室典範とは?
そもそも皇室典範とは何でしょうか。
法律上には定義はありませんが、一般的には日本国憲法第2条、第5条に基づき、天皇・皇位継承および摂政の設置その他皇室に関することを制定する日本の法律です。
つまり、皇室に関することを規定した法律ということになります。
ここで少し疑問に感じる方もいらっしゃると思います。
法律なのに「◯◯法」ではないという点に。
そうなんです。
皇室典範は、戦前は法律ではなかったんです。
大日本帝国憲法下では、憲法と同格の法規として扱われていました。
なので、憲法と典範を合わせて「典憲」と称されてました。
つまり、戦前は法律から独立した法規であり、憲法と同格の扱いで最高法規だったため、「◯◯法」とはなっていないのです。
皇室典範の改正
これまで皇室典範は改正されたことはあるのでしょうか。
皇室典範は、戦前の皇室典範と戦後の皇室典範があります。
戦前の皇室典範
戦前の皇室典範には、改正と増補という手続きありました。
これは文字通り、改めるか増やすかということです。
増補は2度ありました。
明治40年2月11日と大正7年11月28日です。
しかし、皇室典範の本文は改正することなく1947年(昭和22年)5月2日に廃止されました。
戦後の皇室典範
日本国憲法の施行と同時に、1947年(昭和22年)5月3日に施行されました。
戦後の皇室典範は、法律と同等の扱いのため国会で改正が可能です。
そのため改正又は増補の概念は皇室典範にはありません。
2017年(平成29年)
平成の天皇陛下が生前退位のご意向を表明された時は、特例法という形で法律を制定しました。
そして、皇室典範を改正し、附則に、「皇室典範の特例として天皇の退位について定める『天皇の退位等に関する皇室典範特例法』は、皇室典範と一体を成すものである」と追加することで、皇室典範の本文には手を加えることなく生前退位を可能としました。
戦前の皇室典範でいえば、増補に近い形での実現となりました。
2026年(令和8年)
そして今国会で、長い歴史の中で初めて皇室典範の本文が改正されることになりました。
これは皇族数確保に関する問題を是正するために改正されました。
主な内容は、①女性皇族の婚姻後の皇族としての身分の保持、②旧11宮家の男系男子との養子縁組です。
第221回国会に閣法として皇室典範改正法案が提出され、7月17日に国会で可決・成立しました。
7月24日に公布、3ヶ月後に施行という流れになります。
男系男子とは
この改正案が俎上に載ったときから、よく議論されていたのが「男系男子」という言葉です。
まずは男系と女系の意味を押さえていきましょう。
男系とは、「父方の血筋」をたどる系譜を指します。
女系とは、「母方の血筋」をたどる系譜を指します。
つまり、男系男子とは、父方の血筋を辿ることができる男子ということになります。
この話で避けて通れないのが、元明天皇から元正天皇への流れが「女系」では無いのかという点です。
元明天皇と元正天皇
飛鳥時代後半から奈良時代にかけては「天武→文武→聖武」と天武天皇の系譜が即位する時代になります。
そして、当時の慣例として皇太子は天皇の治世を補佐する期間を一定程度経ることが必要とされていました。
しかし、皇太子の聖武天皇は幼すぎて補佐する期間を経ていませんでした。
そこで、聖武天皇が大人になるまでの「中継ぎ」として元明天皇と元正天皇が即位しました。
元明天皇
707年7月17日
文武天皇が早世したため、息子の聖武天皇はまだ7歳という幼い年齢でした。
他に皇子はおらず、聖武天皇が大きくなるまで待たねばなりません。
そこで、史上初めて、皇后を経ずに中継ぎとして即位することになりました。
在任中は、様々な後世に残る事業を政治を行っていきます。
具体的には、以下のようなことをしていきます。
708年
和同開珎を造ります。
しかし、当時は稲や布が貨幣の役割をしていたため流通しませんでした。
710年4月13日
藤原京から平城京に遷都します。
大規模な都城を作ることで、国家権力の大きさを見せつけています。
712年
古事記を完成させます。
天武天皇のやり残した古事記の編纂を完成させ、献上します。
713年
風土記の編纂します。
全国の地理誌のようなもので、常陸・播磨・出雲・豊後・肥前の五ヵ国のものが現存しています。
715年9月2日
元正天皇に皇位を譲ります。
元正天皇
715年9月2日
15歳とまだまだ若年であった聖武天皇に代わって、未婚のままで即位します。
元明天皇の政策は2つで、養老律令と土地改革です。
718年
養老律令を制定します。
これは大宝律令とあまり変わらなかったと言われています。
722年
百万町歩開墾計画を出します。
当時は公地公民といって土地と人は国家の所有という考え方で、非常に重い税を国民から徴収するという形をとっていました。
そうすると、その重い税負担から逃れるために逃げる人が出てきます。
当然ですが、逃げた人の分だけ税がとれなくなり税収が減るわけです。
そこで税収を上げるための方策として、農地を増やす方策を計画するわけです。
それが百万町歩開墾計画です。
しかし、農地を開墾するにも労力を伴いますし、非常に大変です。
なのでまったくうまくいきませんでした。
そこで苦肉の策として新しい法律を施行します。
723年
三世一身法を施行します。
これは土地の開墾をした人にはご褒美として、一定期間の土地の所有を認めるという法律です。
つまり、土地の私有ができる法律ということです。
しかし、当時は公地公民といって土地と人は国家のものであるという考え方でした。
なので、その基本原則が破られるということです。
この法律により律令体制は崩れ始めていくことになります。
724年3月3日
聖武天皇に皇位を譲ります。
男系なのか女系なのか
元明天皇から元正天皇の譲位は、日本史上唯一の「母から娘」への皇位継承です。
そのため、「女系」ではないのかと議論になります。
元明天皇の父親は天智天皇で、元正天皇の父親は草壁皇子です。
草壁皇子は天武天皇の息子で、草壁皇子の息子が文武天皇です。
文武天皇の息子が聖武天皇です。
天武天皇は舒明天皇の息子で、天智天皇も舒明天皇の息子です。
元正天皇は未婚のままで一生を終わられ、次の天皇に就いたのは元明天皇の孫の聖武天皇です。
ずっと父方は天皇家の血筋のある方なので、「父方の血筋」をたどる系譜です。
つまり、全員父親の血筋を辿れば舒明天皇までたどり着く「男系」ということになります。
あくまで聖武天皇が成長するまでの「中継ぎ」として、女性天皇が即位していました。
まとめ
戦前の皇室典範では2回の増補、戦後の皇室典範では1回の附則と改正があり、戦前の皇室典範は憲法と同等の最高法規で、戦後の皇室典範は法律と同等という違いがあります。
この度の改正は、皇族数の確保と旧宮家との養子縁組の2本立てです。
その理由は、男系男子で皇室を繋ぐためです。
歴史を振り返ると、元明天皇から元正天皇へと母から娘への皇位継承もありました。
それは女系ではないのかという疑問ですが、これは実際は男系でした。
今回の記事は皇室のことを取り上げました。
今回のタイムトラベルの旅は終了です。
では、また一緒にタイムトラベルの旅に出ましょう。

