日本最大の財閥・三井財閥―「人の三井」の番頭政治と総帥暗殺の歴史を紐解く

日本最大の財閥・三井財閥 日本史
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日本で最も資本を擁していた財閥といえば「三井財閥」でしょう。そして、最も歴史が華麗で悲惨な財閥も「三井財閥」だと思います。

三井越後屋呉服店に端を発し、様々な事業を展開していきました。しかし、あの有名な血盟団事件によって暗殺されたのは総帥であった団琢磨、GHQによる財閥解体後の再結集の遅れにより散り散りとなった三井グループなど家系は華麗でも実態は悲惨で非業であると言えます。

今回は財閥シリーズ第2弾として、三井財閥を取り上げたいと思います。

ごゆりとお読みください。

三井家の起源

やはり、三井財閥をお伝えする上で欠かせないのが、三井財閥を創設した三井家の存在でしょう。その三井家なのですが、いつどこで誰によって作られたのか不思議ではありませんか?不思議ですよね。分かります。

三井家は、太政大臣・藤原道長の六男長家の五代孫の後藤原右馬之助信生が近江(現在の滋賀県)に移って武士になって、初めて三井の姓を名乗ったのが三井家の始まりとされています。

つまり、三井家は藤原北家の庶流であるということです。また、皇室とも繋がりがあるのが分かります。

しかし、この見方に否定的な意見もあります。

三井財閥の先祖は伊勢商人で慶長年間、武士を廃業した三井高俊が伊勢松阪に質屋兼酒屋を開いたのが起源という。三井家はもともと近江の国佐々木氏の家来で、先祖は藤原道長といっているが、道長とのつながりは後から系図を作ったのかもしれない。

ー 早川隆『日本の上流社会と閨閥』p52

どっちが本当なのかは謎ですが、武士を廃業して質屋と酒屋を作ったのは本当です。

越後屋「お主も悪よのぉ~」の誕生

三井高安の長男である三井高俊が武士を廃業して、質屋をメイン事業して酒屋や味噌屋へと経営の多角化を図り商人として財を蓄えていきました。その店の名前、屋号を「越後屋」とし、これが後の「越後屋」の始まりとされています。

では、なぜ屋号を「越後屋」としたのかというと、三井高安の受領名が「越後」だとされています。したがって、商いを始めたときも「越後殿の酒屋」と呼ばれたりしていました。

越後屋から呉服店へ

三井高俊の嫡男である三井高次が跡を継ぎました。しかし、高次は殆ど経営にはノータッチで、実際は妻の殊宝が経営者として奔走し、越後屋を発展させました。

妻の殊宝が優秀すぎたのか、江戸本町四丁目に小間物店「越後屋」を開き、それが呉服屋となりました。

ここまではただの序章です。大したことはありません。

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三井家の家祖・三井高利

三井高俊の四男であった三井高利は兄である三井高次の元で働き、実務経験を積んでいました。やはり優秀だったからなのか一時は高俊の妻の作った本町の「越後屋」を任されたりと、重宝されていました。しかし、不運なことに母の看病のために全てを捨てて松阪に帰郷しました。

そして、時が過ぎ1637年、再び帰ってきました。この時から才覚を発揮していきます。

まず、高利は江戸に長男を送り込み呉服屋「三井越後屋呉服店(三越)」を出店します。本町一丁目の場所です。この店が後に三井財閥を形成する大事なお店となります。よく覚えておいてください。

次に、高利自身の拠点を松阪から京へと移し、越後屋の管理をしやすくし、業績を拡大しました。

さらに凄いのは幕府の公金為替にも手を広げ両替商を始めたことです。これが当たりに当たり大成功して、幕府御用商人となり、日本屈指の大豪商となり大金持ちになりました。

これが三井財閥の走りとなってきます。

しかし、幕末には幕府への上納金が工面できずに、何度も倒産に危機に陥りますが、三井家特有の番頭政治によって、とても優秀な番頭であった三野村利左衛門が三井家を倒産の危機から救っています。

三井財閥の創設から発展

日本の財閥の特徴は明治政府と癒着して作らていることです。つまり、政商として成りがってきた集団が多いということです。

もちろん、三井財閥も例外ではありません。

三井財閥の創設の流れ

1872年

三井高利が作った「三井越後屋呉服店(三越)」を分割して、金融業を設立しました。三井組です。なんとなく三井財閥が産声をあげそうな感じです。

1876年

三井銀行(現三井住友銀行)、旧三井不動産という三井財閥御三家のうち2企業が発足し、三井財閥の骨格と動脈とガソリンができました。

しかし、ここまでではまだ心臓部ができていません。どうやって統括していくべきだろうかと考えます。

1893年

「三井財閥」の心臓部が生まれます。「三井家同族会」と「三井元方」の設立です。「三井家同族会」とは、三井家最高議決機関です。「三井元方」とは、三井組を改組して作った組織で展開していた事業や業務を一族で統括するためのシステムです。

1896年

「三井商店理事会」を発足させます。「三井商店理事会」とは、統括議決機関です。

家祖である三井手広く高利の遺志をきちんと受け継いだ子ども達が必死で考えた結果、作り上げられたシステムなんですね。

1909年

「三井合名会社」を設立。「三井合名会社」とは、「三井元方」を改組して作った会社です。

この「三井合名会社」が設立されたことによって、「三井財閥」が一応の完成をしたとみられています。

しかし、こういった華麗な中で悲しい悲劇が起こります。

血盟団事件

血盟団事件とは、一言でいうと右翼団体血盟団によって計画実行された暗殺事件で、右翼活動の一環としてよく紹介される事件です。

血盟団とは、日蓮宗の僧侶である国家革新主義者であった井上日召によって組織された右翼団体です。その井上に目をつけれた団琢磨が三井銀行本店(三井本館)の前で血盟団員であった菱沼五郎によって暗殺されました。

理由ははっきりとは分かりませんが、三井財閥がドル買い投資で利益を上げていたからではないかと言われています。謎ですね。はい。

ちなみに、菱沼五郎は出所後に小幡五朗と名乗り、政治家として大成功を収めています。

三井本社

1940年

三井合名会社は三井物産と合併。しかし、これは形式的なもので主導権は「三井総元方」と言われる財閥の議長が持っていました。

1944年

「三井本社」設立。本部機能を移転分離しました。

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戦後の三井財閥

さすがの三井財閥もGHQの強引さには敵わなったのでしょう。できたてほやほやの三井本社がGHQの財閥解体により解散し、跡形も無くなりました。

1946年9月の話です。

この解散事件により、三井家は三井財閥の経営権を失いました。三井と名を冠しながら、三井さんとは全く関係の無い人が経営をしていくという不思議な構図が生まれた瞬間です。

また、後の再結成も遅れ他の財閥に比べ、日本の財界への影響力も衰退し、今では「三井」の冠を被りながら他グループに所属する企業も少なくありません。

三井家さん達の今

財閥解体以後は、三井報恩会などの関連団体で役員などを努め、今でも一族のために活躍している方が多いです。

なお、歴史会議では三大財閥全ての記事を書いています。
よろしければ併せてお読みください。

参考文献

三井の年表|三井広報委員会
https://www.mitsuipr.com/history/chronology/
大本方を基礎に三井合名会社を築く|三井広報委員会
https://www.mitsuipr.com/history/columns/006/
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ともきどっとん

歴史愛好家で現役PC講師兼WEBライターです。夢は「広告収入とライター収入を原資に不動産投資をすること」です。歴史会議を運営中。Mastodonもやっています!

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