地球上で最も裕福な一族・ロスチャイルド家ー父の遺した5つの家訓で一族を発展させた「五本の矢」の物語

ロスチャイルド家 世界史
この記事は約7分で読めます。

世界中で最も裕福な人は誰か知っていますか?

「人」というよりは、「一族」と表現をした方が正確かもしれません。

実は、世のお金の半分は、たった64人の資産家によって持たれていると言われています。

その100人にも満たない資産家のトップに君臨する一族です。

一番多く頂きそうな答えは「英国王室」なのではないでしょうか。

しかし、実は英国王室を凌駕する驚くような莫大な資産を擁している一族がいます。

 

その一族の名は、「ロスチャイルド家」です。

 

総資産「一京円」ともいわれるヨーロッパ貴族のユダヤ一族です。

では、羨ましがりながら見てください。

では、タイムトラベルの旅を一緒に楽しみましょう。

貧困時代のロスチャイルド家

どの大資本家でも同じことが言えますが、初めからお金持ちであった家は1つもありません。

必ず誰かが苦労して大資本家としての地位を築き、その結果、お金持ちと言われる家柄になるわけです。

これはロスチャイルド家も例外ではありません。

ゲットーに住んでいたロスチャイルド家

ロスチャイルド家は、現在のドイツ・フランクフルトに住居を構えていました。

当時のフランクフルトといえば、神聖ローマ帝国の帝国自由都市として自治権を持つなど半独立都市でした。

しかし、ロスチャイルド家は自由には生きていませんでした。

というのも、ロスチャイルド家はユダヤ人系の家系です。

当時はユダヤ人には市民権は認めてもらえておらず、人しての扱いを受けることはありませんでした。

そのため、帝国自由都市の中でもユダヤ人だけを別個に住まわせるための「ゲットー」と名付けられたユダヤ人居住区で暮らしていました

ゲットーに住んでいる人には、法律や社会的な習慣により、職業選択の自由もないくらいに私権を制限されていました。

ロスチャイルド家も例外ではないため、商売をすることで生計を立てていましたが、事業を拡大することができずにいました。

そのため、事業規模は小規模のままだったので生活も厳しく貧しい日々を送っていました。

ロスチャイルド家の名前の由来

ロスチャイルド家は、元々「バウアー」や「ハーン」という名前でした。

では、いつから「ロスチャイルド」と名乗るようになったのでしょうか。

まず、知っておいていただきことがあります。

「ロスチャイルド」という呼び方は英語読みです。彼らの故郷であるドイツのドイツ語読みでは「ロートシルト」と呼びます。

では、話を戻しましょう。

いつから「ロートシルト」と呼ばれるようになったのでしょうか。

それは、彼らの家に原因があります。

「ロートシルト」が貼り付いてた家に住んでいたために、周りから「ロートシルト」と呼ばれるようになりました。

その後、ロートシルト家は引っ越しをしましたが、それでも「ロートシルト」と呼ばれたので、その名を名乗るに至ったというわけです。

「ロートシルト」とは赤い表札のこと言います。

下剋上を始めたロスチャイルド家

転機となった出会い

ロスチャイルド家を興した張本人である「マイアー・ロスチャイルド」は貸金業や両替商をしていましたが、趣味で古銭集めもしていました。

度の過ぎた古銭集めは、面白いことに商売になり、古銭商も始めることにしました。

古銭商を始めると、どんどん運気が向き始め転機が訪れます。

神聖ローマ帝国の領邦国家であった「ヘッセン=カッセル方伯領」の当主であるフリードリヒ2世の嫡男ヴィルヘルム1世(後の初代ヘッセン選帝候)と古銭の話で意気投合し、仲良くなります。

その後、フリードリヒ2世が死去する、当時ヨーロッパ最大と言われた莫大な資産をヴィルヘルム1世が相続し、財産の運用をマイアーに任せます。

ヘッセン家の閨閥の広さを利用して、上流階級の一族や様々な産業へ貸付を行うことで人脈と財産を蓄えていきました。

そして、ヴィルヘルム1世と共同経営をする形で、「ヘッセン=カッセル方伯領」内の若者を立派な傭兵へと育て上げて、軍人不足のイギリスに貸出す傭兵業を営むことで、ヨーロッパ随一の大金持ちへとなりました。

莫大の資産を元手に、どんどん信用供与と貸付を行い商人から銀行家へと華麗なる転身を果たし、ドイツだけではなくヨーロッパ全体へ勢力を拡大し始めました。

ナポレオン戦争

ロスチャイルド家はナポレオン戦争でも莫大な利益を得ます。

ナポレオン戦争とは、1796年から1815年までの約20年間、ナポレオンが女を侍らかしながら展開した数々の戦争の通称です。

ロスチャイルド家にとって良かったのは、フランス軍は「自由主義」を掲げていたことです。フランス軍は征服地で人種差別されていた人種の解放政策を行っていました。

これは、ユダヤ人も例外ではなく封建主義的な束縛から解放されるに至ったわけです。

これを契機とばかりに、ロスチャイルド家はヘッセン家だけに依存する超絶不安定な状態から脱却するべき動きを始めます。

まず動いたのは、三男ネイサンです。

戦争で、ドイツでは綿製品が不足し、価格が高騰していました。

これに目を付け、産業革命で大量生産されていたイギリス製布製品を安価に買付、ドイツで売るという転売により莫大な利益を上げました。

その利益を元手に、ロンドンでN・M・ロスチャイルド&サンズを創設して金融業を開始しました。

スポンサーリンク

家祖の遺した5つの家訓と「五本の矢」による五家の創設

1812年

鬼才であった「マイアー・ロスチャイルド」は、5つの『家訓』を遺言として残し、死去します。

その家訓とは、下記の5つです。

  1. ロートシルト銀行の重役は一族で占めること
  2. 事業への参加は男子相続人のみにすること
  3. 事業内容の秘密を厳守すること
  4. 一族に過半数の反対がない限り宗家も分家も長男が継ぐこと
  5. 婚姻はロートシルト一族内で行うこと

ロスチャイルド家には、「口外しない」という暗黙の掟が存在していました。

その暗黙の掟を守ることが、一族間での「信用」へと繋がっていきます。

そして、「五本の矢」として5人の息子に家訓を託したわけです。

もし、この家訓を守らなかった場合は、一族の事業から追放するという厳格なルールを作り、鉄の結束としていました。

「五本の矢」による家訓の実行

父の家訓に従って、5人の息子達は実行を起こします。

  • 長男・アムシェルは「フランクフルト」に残り、フランクフルトの事業を全て継承します。
  • 次男・ザロモンは「ウィーン」に移住し、新たに銀行業を始めます。
  • 三男・ネイサンは「ロンドン」に既に移住しており、銀行業を始めていました。
  • 四男・カールは「ナポリ」に移住し、新たに銀行業を始めます。
  • 五男・ジェームスは「パリ」に既に移住しており、銀行業を始めていました。

これにより五家の連携が円滑に行えるようになり、意思疎通も迅速に行えるようになりました。

これが「ロスチャイルド家」の始まりです。

ロスチャイルド

出典:ヨーロッパがロスチャイルドにどんだけ支配されてるかわかる図 | タクミくん二次創作SSブログ(Station後)

この後にも、衰退し、ロスチャイルド家の終わりが迎えそうにもなりましたが、終わることなく現在まで続いています。

その話は、また別の機会にしたいと思います。

ロスチャイルド家に不文律として存在した3つの『家訓』

実は、マイアー・ロスチャイルドが遺言として遺した5つの『家訓』は、ロスチャイルド家が連綿と守り続けた3つの『家訓』を元に作られています。

Concordia(調和)・Integritas(誠実)・Industria(勤勉)

ロスチャイルド家がこのような発展を遂げたのは、代々ロスチャイルド家に不文律として存在した3つの家訓があったからに他ならないと思います。

マイヤーロスチャイルドも、大変な勤勉家で誠実に働き、環境に調和して地位を築きあげました。

名家になる家には、それなりの家訓があることが伺えます。

ロスチャイルド家の紋章

ロスチャイルド家

ロスチャイルド家の紋章は、1822年にオーストリア皇帝フランツ2世により、男爵の爵位と一緒に授与されました。

今もなお、その爵位はロスチャイルド家当主に受け継がれています。

紋章をよく見ていただくと分かると思いますが、盾の中には5本の矢を持った手が描かれています。この「5本の矢」が創始者の5人の息子を表しています。

盾の下には、ロスチャイルド家が不文律として守ってきた家訓である「Concordia(調和)・Integritas(誠実)・Industria(勤勉)」が描かれています。

なるほど。紋章1つで歴史が見えてきますね。

スポンサーリンク

最後に

どうですか?

たった1人のユダヤ人の男の下剋上があったからこそ「ロスチャイルド家」の栄花はあったと思えます。

そして、彼の唱えた家訓に忠実に従い、家業を拡大した5人の息子がいたから規模が大きくなりました。

この6人の男がいたからこそ、ヨーロッパでも屈指、いや世界で最も裕福な名家へと成長し、金融業を核に巨大財閥として世界中で名を轟かせるに至ったのでしょう。

感動しました。

スポンサーリンク
タイトルとURLをコピーしました