【8月6日】 神風特攻隊 ~ 戦後70年の真実 ~

平和への道 平和への道
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突然ですが、1つだけ質問をさせて下さい。

 

今年で戦後70年が経過しますが、世界は平和になったと思いますか?

 

私は、まだまだ平和には程遠いというのが現状かと感じています。

また、少しでも平和に近付いたかといわれても、首を傾げることでしょう。

 

私は被爆地広島で出生し育ちしました。祖父は被爆経験者です。

したがって、私は被曝三世ということになります。

 

このように広島で生まれ育った者として、平和を祈念し訴えていくことは使命だ考えています。

その使命を果たすために、大日本帝国憲法下で行われた第二次世界大戦をお伝えすることもまた使命だと考え、今回は、徴兵制で犠牲になられた英霊の方々をお伝えしたいと思います。

 

少しでもいいので『平和と人間』というキーワードを考えていただきたいと思います。

 

以上より、今年の『平和への道』は「徴兵制を採用した当時、犠牲になられた英霊の方」です。

 

長くなる予定ですが、なるべく分かりやすくお話をしていきたいと思いますので、お付き合いのほど宜しくお願い致します。

神風特攻隊とは?

まずは、神風特攻隊の話をする前に『神風特攻隊』とは何だったのかということを、お話したいと思います。

神風特攻隊とは、正式名称を『神風特別攻撃隊』と言います。

航空機の特攻隊なのですが、所属部隊は海軍となります。

もちろん、陸軍にも特攻隊は編成されていましたが、海軍所属の特攻隊の方がスポットライトを浴びています。

 

神風特攻隊が編成されたのは太平洋戦争末期なのですが、その頃の日本は敗戦が確定的であったにも関わらず意地で戦っていました。

ご存知の方もいるかと思いますが、日本側は降伏側と続行側に分かれていたと言われています。

昭和天皇率いる降伏側と日本軍率いる続行側の二分割です。

神風特攻隊の編成を命じたのは・・・もちろん、日本軍率いる続行側となります。

 

少しだけ脱線しますが、ここで注意をして頂きたいのは、昭和天皇は降伏側だったということです。

よく左翼の方が「第二次世界大戦の戦争責任は昭和天皇が取るべきだ」という発言をしているのを見受けられますが、どのような理由で戦争責任を求めているのでしょうか。

考えられるとしたら、統帥権を持っているのは昭和天皇だったからでしょう。

しかし、実質的な統帥をしていたのは日本軍です。

本来、責任を追うべきなのは、当時の戦争を続行させた、実質的な統帥を行った日本軍側だと考えられます。

 

現在の統治機構で考えてみると、行政権は内閣に属し、形式的には内閣が行政を行っていることになっていますが、実質的には内閣ではなく各行政機関が行っています。

つまり、実際には内閣や天皇などが指揮するのは不可能なのです。

その分野の専門家でもありませんしね。

何故、神風特攻隊を編成したのか?

神風特攻隊の有り様を知っている方は非常に多いかと思います。

『死ぬことを覚悟して敵方に特攻をする』という決死戦であったということです。

 

では、何故、このような部隊が編成されたのでしょうか。

その疑問が今回の記事にて解き明かしていきたい部分となります。

理由① 『敗戦の確定』

前述した通り、神風特攻隊が編成された当時の日本は負けていました。

はっきり言いますが、敗戦が確定されていた状態です。

つまり、日本軍率いる続行側が戦争を続けるためには決死の戦術が必要でした。

 

普通に戦っていたのでは突破口が開けない状況だったわけです(当たり前ですが・・・)。

そこで選ばれたのが死ぬことを前提にした人間魚雷にも酷似した特攻隊を編成し、敵の艦隊に突撃させるという戦術だったわけです。

理由② 『人材の枯渇』

この問題も大きな問題だったのだと推察されます。

どういうことかというと、当時の日本軍は非常に無益で無理な戦争を遂行していましたが、その戦争に先人を切らせたのが、有能で有益な人材です。

 

有能で有益な人材を先陣を切らせ、短期戦を狙う戦術を行っていました。

そんな戦術を行っていたために、太平洋戦争末期には若手の人材しか残っていなかったのです。

そんな若手の人材では、まともに戦うことが不可能であると考え、決死隊として特攻隊を編成したことが推察されます。

まとめ

当時の日本軍は敗戦が確定しているのに戦争を続行しようとしたが、人材が枯渇状態だった。

そこで若手を決死隊として編成し死ぬことを前提とした神風特攻隊を編成した。

これが事実なのではないでしょうか。

 

実際、この問題は様々な学者などが議論をしていますが答えが導かれていませので、あくまで私の所感ですが、私はそのように考えています。

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神風特攻隊は志願制だったのか?

神風特攻隊は志願制であったとよく言われいますが、本当に志願制だったのでしょうか。

建前上は志願制だったそうですが、「志願せよ」 と言われて志願していたらしいです。

つまり、志願を強制されて志願した人が多かったというわけです。

 

上官には逆らえないので志願をしますが、志願をするとほぼ必ず特攻隊に入ることになります。

これは志願制ではなく、強制入隊と言っても差し支えないであろうと思われます。

また、強制入隊を余儀無くされた時期もあったそうです。

志願者は皆無であったのか?

先ほども言いましたが、志願を強制されて志願した志願者が多かったわけです。

多かったということは、全く志願者がいなかったわけではありません。

国のために志願したのか、天皇のために志願したのか、はたまた、妻や子供のことを想い志願したのか分かりません。

しかし、様々な想いを抱き志願しのでしょう。

 

ここでご紹介をしたい会話があります。

当時、報道班員であった山岡荘八(作家)が特攻隊員であった西田高光中尉(当時23歳)に、「この戦争に勝てると思うか?もし負けても悔いはないのか?」と質問をした時の回答です。

いま、ここにいる隊員(出陣学徒)は、みな自分から進んで志願してきたもので、いずれも動揺期は克服しています。学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとどうなるのでしょう・・・おわかりでしょう。我々の生命は講和の条件にも、そのあとの日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに・・・・・
出典 : https://plaza.rakuten.co.jp/inasedane/6000/

この質問の回答を見て頂くとお分かりになるかと思いますが、志願兵はかなりの動揺をしていたと推察できます。

しかし、戦争が終わった、その後の日本人を想って志願をしていたということが分かります。

 

それでも、かなりの不安と恐怖にも押し潰されそうになっていたことでしょう。

それがはやり人間ですから・・・

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特攻隊第一号

8月になると各地で神風特攻隊の本が販売されますが、その本にも必ずと言っていい程紹介がされる『関行男中佐』をご紹介します。

神風特攻隊が編成された時、彼は指揮官の方に肩を叩かれ、こう言われたそうです。

 

「行ってくれるか」 ・・・とっ。

 

この当時、30機しか存在しなかった戦闘機を有効的に活用するために、一回限りで編成した神風特攻隊に参加しました。

『志願者』 から編成した26名の神風特攻隊です。

その神風特攻隊はアメリカ空母セント・ローを撃沈する事に見事成功をしたわけです。

 

特攻の前日に関行男中佐が同盟通信社の記者で海軍報道班員の小野田政に言った言葉があります。

是非、紹介をしたい思います。

報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある!僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、素晴らしいだろう!?
出典 : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%A1%8C%E7%94%B7

私は、この言葉をコンビニである本を立ち読みしているときに読みましたが、何とも言えない感情が全身を包み込んだのを、今でも鮮明に覚えています。

私も日本史の勉強として色々な記事や書籍を読みますが、特攻隊として命を落とすことを分かって出撃をした人たちの大半は、このように家族などの最愛の人のために行く人が多かったと思います。

前述しましたが、後の日本人のために出撃をした人も、このように家族などの最愛の人たちのためというのも含んでいたのではないでしょうか。

編成理由のまとめ

ここでもう一度、編成理由をまとめ直してみましょう。

最初で最後の特攻隊

最初は一回のみでの編成でした。そう、関行男中佐の時です。

関行男中佐の肩を叩いて特攻隊の入隊を促した時の神風特攻隊は一回限りの予定だったのです。

この時は、継続をする予定ではありませんでした。

日本軍も苦渋の決断だったそうです。

志願兵での編成

日本軍も死ぬことが前提の特攻隊を、一回限りの編成だった神風特攻隊を志願兵で軍備し始めました。

この記事の最初の方でも言いましたが、『敗戦の確定』と『人材の枯渇』、さらに『機体の損失』が最大の理由です。

当然、志願しない人の方が多いでしょう。そこで日本軍は志願を促したりしました。

行ってくれるか?

編成当初は、あくまで志願制でした。

様々なことをご紹介しているうちに分かり難くなっていましたが、当初はあくまで志願制でした。

ここで注意して欲しいのは、上官の指令なので断れないわけです。

なので、あくまで志願制です。

半ば強制であったということを忘れないで下さい。

とにかく死んでこい

次第に強制命令に変わっていきます。

当時の戦況や軍備状況などを考えると、当然で当たり前の変化状況でしょう。

戦況は次第に悪くなっていきますが、それに伴い日本は何度も決死戦として特攻隊を投入しています。

しかし、日本の戦況は一向に良くなりませんし、戦況が停滞しているわけでもありません。

つまり、悪化しているわけです。

指令官や上層部は「最後の一機で我々も散る」と宣言して、部下達をどんどん特攻隊として投入していくわです(指令官や上層部は戦後も生き残っています)。

その後、最後の最後まで出撃して、日本は敗戦を迎えたのです。

最後に

長い記事をお読み頂きありがとうございます。

今年、戦後70周年という歴史的な年でもあります。

 

私は広島に生まれ育ったので第二次世界大戦の勉強は学生の時から深く学習してきました。

課外授業でも平和公園でピースメッセージとしてアメリカ人からコメントを頂いたりもしました。

その時のピースメッセージの内容には、原爆ドームを見たときの感想や原爆を落としたことに関するメッセージ等もありましたし、平和を願うメッセージ等もありました。

 

これから安保法案が衆院・参院と通過すると公布され施行がされます。

安保法案が即時戦争に繋がるわけではありませんが、今後、憲法9条が改正されると、そのような可能性も全く否定はできません。

しかし、法は時代に沿って改正されて初めて意味を成すものでもあります。

もし、今後日本が戦争に向かう前兆などがあった際は、我々国民でそれを阻止することも大事なことでしょう。

その為にも、皆様も平和や憲法のことを少しでも考えて頂ければ幸いです。

 

2015年8月15日、戦後70周年を迎えます。

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