【8月6日】 戦後73年の今考えること

平和への道 平和への道
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みなさん、いかがお過ごしだったでしょうか。

どうも、ともきどっとん(@tomokidotn)です。

久しぶりの投稿になるうえに、今年1回目の投稿となります。

夏の暑い日が続くので、読者の皆様もどうぞ体にはお気を付けてお過ごしください。

では、一緒に素敵なタイムトラベルの旅へ

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分

広島県民はこの暑い夏の日に思い馳せることがあります。

中には全く気にすることなく、普段通りの日常を過ごす人もいるかと思いますが、そうでない人も多くいます。

特に学生などはこの日には学校に登校します。

楽しい夏休みを過ごしている中、汗をだらだらと垂らし登校するわけです。

そして、登校すると必ずすることがあります。黙祷です。

なぜ、広島県民は8月6日に黙祷を捧げるのでしょうか。

それは、73年前に広島で起きた広島県民その他の都道府県民も日本人なら忘れてはならない出来事に祈りを捧げるためです。

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分

東経132度27分29秒、北緯34度23分29秒、高度580メートルの位置にピカーンと光る閃光が炸裂し、小型の灼熱の太陽のような火球が作られました。

B-29「エノラ・ゲイ」の投下した原子爆弾です。投下、43秒後の出来事です。

それからは文字通りの地獄絵図です。

火球の温度は数十万〜数百万度、これだけの温度があれば当然、周りの温度も高くなります。

爆心地周辺の温度は三千〜四千度です。

そうすると、この温度に耐えれなくなり亡くなられる方が大勢でできます。

また、生きておられた方も皮膚がただれるといった症状がありました。

さらには、爆風で建物が倒壊し、吹き飛ばされたり、燃える中逃げ出せずに焼死したり、ガラスが割れ、そのガラスが全身に突き刺さるなどがありました。

愛する人も、大事な人も、友達も、家族も、知人も、親戚も、、、

その年の年末までに多くの人が亡くなりました。広島では約14万人長崎では約7万人です。

そんな戦争の惨禍の中で、学都・軍都と呼ばれた広島は、焼け払われた野原に死体の海とたくさんの被爆者を抱えながら、復興の道を歩み今日を迎えました。

現在では当時を知る人も少なくなり、直接話を聞くことも少なくなったのではないかと思います。私が学生の時は、被爆体験談を聞いたり、すいとん汁や平和ポスターを作ったりもしました。

実際に戦争を体験したことはないですが、原爆症に悩まれている方や被爆者の怪我などを見ることも多く、また様々な生々しいリアルな話を聞いてきました。

これから先、当時の日本を生きて見てきた人々が亡くなり、伝聞でしか伝えることができない世代になるにつれて風化するのではないだろうかという懸念があります。

実際、広島県民も8月6日の平和宣言のスピーチの映像を見て、ハッと思い出す人もいます。

これも風化の兆候ではないだろうかと思います。

しかし、絶対に風化させてはいけません。

確かに、先の米朝首脳会談で北朝鮮の国家元首による「完全な非核化」が表明されました。

非核化へのアクションがあるまでは大変懐疑的ではありますが、これも平和の第一歩と言えるかもしれません。

しかし、まだまだ世界では内戦なども多く、また国家間の緊張状態もあり確実な平和が訪れるのはまだまだ先のように感じます。

平和

言葉は簡単ですが、実現は難しい。

戦後73年の「非核化」と頻出する今年の夏、今一度考察するべきなのかもしれません。

2018年8月15日、戦後73年を迎えます。

皆様にとって「平和」な1年になるように祈念しつつ筆を止めたいと思います。

まとめ

広島県民は、本当に平和に関して考察する機会が非常に多いです。

小中高と学習の中にも平和について学ぶ時間が存在します。

広島大学には全国で唯一の平和学が必修に存在しています。

広島県民は、他県民に比べても『平和』に対する意識が違うように感じます。

この意識だけは変わらないように教育をして欲しいと思います。

今回のタイムトラベルの旅は終了です。

では、また一緒にタイムトラベルの旅に出ましょう。

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