エリカ様のお薬騒動で延期となっていた大河ドラマ『麒麟がくる』の放送日が決まりました。
1月19日。少し遅めのスタートとなります。
報道によると、当初は1月5日からの放送予定でしたが、エリカ様の代打で再撮するために2週間ズラしての1月19日になったそうです。
NHKは大変な迷惑を被ったわけです。
その一方で、民放テレビ局各社では視聴率を取ろうと、大河ドラマに便乗して明智光秀を取り上げた番組を多数放送しています。
新しい着眼点で明智光秀を分析して、新説を紹介したりしていて面白かったです。
歴史会議でも、民放テレビ局を模倣したいと思います。
取り上げるお話は、『明智光秀は「本当はいい奴」だったのではないか説』です。
明智光秀といえば切っても切り離せない「本能寺の変」。
ご安心ください。きちんとお話します。
明智光秀の生い立ち
放浪癖
まずは、明智光秀の生い立ちをさらっとお伝えしたいと思います。
明智光秀は、朝倉義景と足利義輝に仕えて、その後に織田信長に仕えました。
どうでしょうか。
これが、現在、分かっている明智光秀の生い立ちの全てです。
実は、明智光秀の生い立ちは不明な点が多く、分かっていないことばかりです。
分かっていないことが多いからなのか、色々と憶測が飛び交っていますが、事実として分かっていることだけを記載します。
- 若い頃に、美濃の斎藤道三に仕えた。
- 斎藤道三の死後、越前の朝倉義景に仕える。
- そして、足利義昭に仕え、室町幕府とパイプを持つ。
- その後、織田信長に仕える。
改めてリストで見ると驚くのですが、いつどこで生まれたのかさえも分かりません。
「あちらこちらと転々とする放浪癖のある人」ということが分かるだけの謎の人です。
明智さん、秘密主義だったんですかね。
家紋
明智光秀のことで分かっていることがもう1つあります。
明智家の家紋・「水色桔梗」です。
明智光秀は、清和源氏の美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身だと考えれています。
筆者である私は、この説は間違えないと考えています。
なぜかというと、土岐氏の家紋が「土岐桔梗」なのです。
つまり、自分の主君である土岐氏の家紋をアレンジしたのだと思います。
明智光秀の願い
では、次に、なぜ主君をころころと変えたのでしょうか。
この答えが、大変人間味が溢れる明智光秀の願いなのです。
戦乱の世を終わらせるため、常に「平和と安定」を求めたからです。
「この主君であれば「平和と安定」を叶えてくれるかもしれない」と考え、新しい武将へ浮気をして主君を乗り換えていったわけです。
代表的な3人との主君とのお話をお伝えしていきます。
明智光秀の華麗なる略歴の大半は、斎藤道三との関係で築かれたものだと分かると思います。
斎藤道三

斎藤道三
明智家と斎藤家は姻戚関係にあります。
というのも、斎藤道三の正室である小見の方の兄弟姉妹が明智光継です。
明智光継は、明智光秀の父上ですので、小見の方は叔母さんになるわけですね。
明智家の巻き込まれ滅亡

斎藤義龍
斎藤道三は、小見の方が生んだ次男・孫四郎、三男・喜平次、末子・利治を溺愛していたので、美濃の跡継ぎにしようとしました。
そうすると、側室の深芳野の息子であった長男・義龍と大喧嘩となり美濃を巻き込む壮大な親子喧嘩が勃発しました。
もちろん、明智家は小見の方の手前、斎藤道三に加勢するわけですが、斎藤義龍の兵力が圧倒的で見事に討たれてしまいます。
その結果、明智家も斎藤義龍により滅ぼされました。
お家が無くなった明智光秀は何とか美濃から逃げましたが、行く宛も無かったので放浪する日々を過ごします。
その中で出会ったのが、足利義昭です。
第15代将軍・足利義昭

足利義昭
次に足利義昭とのお話です。
足利義昭における明智光秀の最大の功労は、「織田信長との仲介」です。
少し長くなるのですが、お付き合いください。
越前の朝倉
1565年5月に室町幕府第13代将軍足利義輝が三好義継、三好三人衆、松永久通らに暗殺されます。
このとき、弟の足利義昭は巻き込まれないように、放浪中に出会った明智光秀に朝倉義景との仲介を頼み、越前に逃げます。
当時、明智光秀は越前の朝倉義景に仕えていたので、仲介が可能でした。
しかし、明智光秀は、足利義昭の側近であった細川幽斎(細川藤孝)に対して、「朝倉を頼っていては義昭を京に戻すことはできない。信長を頼るべきだ。」と言い、岐阜に向けて使者を送るように伝えました。
後日、足利義昭から要請を受けた明智光秀が自ら岐阜に赴き、信長と話し合い足利義昭を京に戻す算段を付けました。
そして、京に戻った足利義昭は室町幕府第15代将軍となるわけです。
室町幕府・第15代将軍の誕生
その後、明智光秀は「この人であれば、この戦乱の世を治めて「平和と安定」を叶えてくれるかもしれない」と思い、朝倉義景から足利義昭に主君を変えます。
しかし、足利義昭は調子に乗り始めました。
これでは「平和と安定」の世は来ないと思い、織田信長に枕替えします。
織田信長

織田信長
足利義昭のときにも不思議に思ったかもしれません。
なぜ、明智光秀は織田信長と話できる立場だったのでしょうか。
その理由は、小見の方の生んだ娘である帰蝶(濃姫)が織田信長の正妻として嫁いだからです。
つまり、明智光秀は織田家とも姻戚関係があったのです。
信頼と信用
また、織田信長は自分の実力をきちんと評価してくれ、能力を存分に発揮できる環境を提供してくれたので、明智光秀は恩義を感じていました。
さらに、織田信長は明智光秀に重要なポストを次々に与えるほど信頼を寄せていましたが、段々と信頼ができなくなった明智光秀は日本史上最大のクーデターを決行します。
明智光秀のクーデター

本願寺跡
天正10年6月2日(1582年6月21日)
日本史上最大のクーデターが起きます。
みなさんご存知の『本能寺の変』です。
本能寺の変を起こした理由は分かっていないのですが、分かっていることもあります。
というのも、
- 柴田勝家は北陸で上杉氏と戦
- 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は中国地方で毛利氏と戦
- 滝川一益は武田氏滅亡後の関東を治め
- 丹羽長秀と織田信孝は四国の長宗我部氏と戦
でした。
明智光秀以外の織田四天王は、手が埋まっている状態です。
その上、羽柴秀吉は中国地方にいるという始末です。
つまり、明智光秀だけがお手すきの状態でした。
決行
「運良く」お手すき状態の明智光秀が、1万3千の大軍の兵を率いて京洛します。
陣を展開し、「敵は本能寺にあり!」と高らかに叫び、本能寺に宿泊していたたった150人ほどの織田信長の寝込みを襲いに行ったわけです。
不意打ちです。
その後、豊臣秀吉がたったの10日で中国地方から京に戻り(中国大返しといいます)、明智光秀を討ったわけ(俗にいう三日天下)です。
明智光秀のクーデターの本当の理由
今回のテーマの答えはここにあります。
記事が長いと感じた場合は、ここだけをお読みください。
明智光秀がクーデターを起こした本当の理由は何でしょうか。
理由については、昔から様々な説があります。①怨恨説、②野望説、③黒幕説などです。
私の知人の説
以前に、知人から聞いた説は①と③の複合でした。
内容は、明智光秀は母を織田信長に殺されたため、織田信長を日頃から恨んでいた。
そのことを利用して、豊臣秀吉に唆されてクーデターを起こしたという話です。
視点としては悪くないのですが、ただ問題なのは明智光秀の母・お牧の方です。
八上城攻め
『八上城攻め』といいまして、織田信長と波多野三兄弟の戦がありました。
そのときに、織田信長は波多野との和平条件を結んだのですが、それを破って波多野三兄弟を殺しました。
その結果、見せしめとして、明智光秀の母・お牧の方は波多野の家臣によって殺されたわけです。
つまり、彼女は織田信長に殺されたのではなく、波多野の家臣に殺されたわけです。
織田信長を討った本当の理由
推測の域を出ないのですが、1つの説としてごらんください。
明智光秀が本能寺の変を起こした頃の織田信長を見ていただきたいと思います。
この頃の織田信長は、天下を目前にしヒートアップしてきたのか元から酷かった独裁者ぶりに更に磨きをかけました。
使えない者は切り捨て、左遷し、歯向かう者は斬り殺す、さらには天皇にも認められた僧侶を寺ごと焼き払うという暴君のような独裁者ぶりでした。
明智光秀の考えは「世の平和と安定」です。
この考えからすると、織田信長の暴君独裁者ぶりは全く正反対です。
このように暴君独裁者となった織田信長を叩き潰して、「世の平和と安定」を実現するために、新しい人をトップに立てようとしたのかもしれません。
そこで、織田信長に引導を渡すために、頭の良かった明智光秀は織田四天王も羽柴秀吉もいない天正10年6月(1582年6月)を選び、そこでクーデターを実行したのではないでしょうか。
真実は闇の中ですので、分かりませんが。
まとめ
最後に、今回は「麒麟がくる」が放送されるということもあり、明智光秀を取り上げました。
明智光秀の生い立ちでもお話をした通り、明智光秀は資料が少ないので出自も分からないという謎っぷりです。
しかし、歴史というのはいつもミステリーであり、真実とされていたことが数十年後に実は違っていたということも頻繁にあります。
どれが真実かは、最後はご自分で判断していただきたいと思います。
以上、ここで終わりとしたいと思います。
歴史会議では戦国武将ランキングも発表しています。
今回の主人公であった明智光秀は何位に登場するのでしょうか。
予想しながら、是非お読みください。
もっと詳しく明智光秀を知りたい方へ
ここまでお読みになられた方は、明智光秀に大変関心を寄せられている人だと思います。
そんな読者の方へ、歴史会議からおすすめの書籍をお伝えしたいと思います。
明智光秀
まずは、文春文庫の明智光秀です。
文庫本はだらだらと書かれているイメージが多いと思いますが、この書籍は切れ味も良く大変読みやすい叙述で書かれています。
たいていの有力説も網羅されており、概要を知るには最適な書籍となります。
信長家臣明智光秀
次におすすめなのは、新書です。
本能寺の変を「主君」と「家臣」という視点から解明していく書籍です。
史料も明確に示しているので文献歴史学の視点からは信ぴょう性が高いです。
読みやすい新書サイズなので、是非、手にとって読んでみてください。