驚きのニュースが舞い込んできました。
日本全国津々浦々で有名な東京大学のあの門が閉鎖されたというニュースです。
東京大学のあの有名な門とは・・・そうです!『赤門』です。
閉鎖理由は、耐震診断を行うと安心できる耐震性能ではないので、耐震工事をするまで閉鎖するとのことでした。
詳しくはリンクを貼っておくので、そちらからご覧ください。
今回は、そんな東大の赤門の歴史をご紹介したいと思います。
では、タイムトラベルの旅を一緒に楽しみましょう。
加賀藩前田家の屋敷
時を遡ること、江戸時代。
赤門が存在する東京大学本郷キャンパス一帯は、加賀藩の上屋敷でした。
というのも、1617年~1618年頃に加賀藩前田家が幕府から本郷に屋敷地を貰いました。
このときは、本郷を下屋敷としました。
しかし、1863年、約250年の月日が経過し、本郷邸を上屋敷(かみやしき)、駒込邸を中屋敷(なかやしき)、平尾邸を下屋敷(しもやしき)に変更しました。
これによって、本郷が加賀藩の上屋敷となりました。
さっくりと違いもご紹介しておきます。
- 上屋敷 ー 藩主とその妻子
- 中屋敷 ー 隠居や世継ぎ
- 下屋敷 ー 国元からの荷揚げ用の蔵屋敷
もちろん、下屋敷とは別に蔵屋敷を作る場合も多々あります。
加賀藩前田家の御守殿門
御守殿門とは
まずは、御守殿門とは何かをお話したいと思います。
一言で言うのであれば、江戸時代に存在したお金が莫大にかかる慣習のことです。
読んで驚いて、通帳の残高を確認してみてください。
各地の有名な大名は、将軍家と結婚することが多々ありました。
その大名の中でも、位官が『三位』以上の大名が将軍家から奥さんを貰う場合は、その奥さんの居住する奥御殿を建築する必要があったのです。
この奥さんの居住する奥御殿を『御守殿(ごしゅでん)』、または『御住居(おすまい)』と呼びました。
この御守殿の表門が『黒門』なのに対して、表通りからその場所へ出入りする朱塗りの高麗門を『御守殿門』と呼びました。
そうです。豪邸を1軒建てるのです。怖いですよね。ほんと金が飛ぶ飛ぶ。
前田家に嫁いできた徳川将軍家
では、前田家のお話です。
実は、前田家、めちゃくちゃ凄い家なのです。
というのも、大名官位(武家官位)が徳川家宗家・分家に継ぐ、『正四位』なのです。
徳川家以外の大名ではトップに君臨しているということです。
そんなめちゃくちゃ凄い前田家の第13代藩主である前田斉泰が、江戸幕府第11代将軍徳川家斉の娘である溶姫を正室として迎えることとなりました。
前田家は『正四位』なので、御守殿を作る必要はないかと思いきや、前田家は溶姫のために御守殿をせっせと作ります。
それが加賀屋敷御守殿です。
加賀屋敷御守殿の御守殿門が赤門に
覚えていますか?
表通りから御守殿へ出入りする朱色の門を御守殿門といいました。
そうです。東大の赤門は、溶姫のために作られた河賀屋敷御守殿の御守殿門なのです。
東京に存在した藩邸の門では唯一現存する門で、当時の技術と門を後世に伝える大事な文化遺産となっています。
まとめ
1817年(明治4年)に加賀藩邸の大半が政府に収公され、文部省用地となりました。
その後、1877年(明治10年)に帝国大学令により、帝国大学が創設されるに伴い、帝国大学の敷地となり、文部省から移管されました。
そして、1903年(明治36年)に医科大学の建設に伴い、元の場所から15mほどキャンパス側に寄った現在の場所に移設されました。
東大の赤門を1つ取っても、人間味溢れる歴史を感じることができます。
高貴な将軍家からお嫁さんを貰うんだから、盛大に歓迎しろという風が垣間見えた瞬間でした。
今回は、ここで終わりにしたいと思います。